Sports fishing information service japan 1976.3. 創立 九州磯釣連盟 北九州支部 海洋磯釣倶楽部/広報musick アドロ (ポール・モーリア) 12

福岡県北九州市立美術館へシニア夫婦と孫のミータンと訪問しました 2014.1.2.

ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2013.7. 1 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2014.5. 2 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2014.10. 3 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2015,5, 5
ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2015.8. 6 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2016.1 7 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2016.3.予定 8 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2016.5.予定 bX

 ワープロからパソコン、インターネットにつづく私の遊び心  bS           記  大和三郎丸 (上瀧勇哲)
       「機関誌 海洋だより」に記載した稿を再編集して紹介しています


ワープロからパソコン、インターネットに続く私の遊び心    bS


            サーフメイズ JAPAN  事務局長 上瀧(じょうたき)(ゆう)(てつ)


「お魚釣り文化を広く世の中にアピールした人」といえば、やはり詩人とか和歌などを嗜みながら釣り人の心を刻んだ人ではないでしょうか。

難しい釣り文化、歴史は分からないのですが、釣りそのものをアピールしながら釣り人を増すとか、万人の趣味を一つにして、人生を楽しむ「釣り文化思想」を位置づけた先人が居たことは間違いない事で、その文化を継承してゆく過程に私達が知る有名な釣り人がいました。

その中で多くの書籍を残した方も居るでしょうし、釣趣そのものを時代と一緒に取り込み、遊びの世界から必要な機材を作る人々、つりエサや小物釣り具を探究した人、あるいは企業家として立ち上げ、ものを作りながら万人の釣り人に提供したり、小売に専念して、釣り文化を広く伝えた地域の釣具店など、その分野は多岐にわたります。

人類が誕生した大昔からお魚さんが居ましたが、その魚を捕る為に人間の知恵を最大限に発揮させ生活してきた祖先。そして、その魚を多く捕り、商いをしながら自己の生活を幸福にするアクションを起こします。たくさん魚を捕るにはどうしたら良いか等々、お魚と人間の関係が力強く生まれてきます。現代の漁師のような大ざっぱな関係ですが、魚と関わる人間欲は、商いか趣味か、二つの視点で分かれます。

私達は趣味の釣りをしていますから、楽しみを覚えながらライフスタイルをエンジョイします。そこで「釣り文化」といえるものが生まれます。決して商いではありませんが、趣味の域で通い合える人間同士のコミュニケーションを育み、釣り文化思想が歴史の中で位置づけられます。

私達は趣味のお魚釣りをしていますが、それを手助けしてくれる物、鈎とか、つり糸などですが、これ等をベースにした近年の釣り竿とかリールなど、進化した過程を文明と申しますが、ありとあらゆる物がたくさんあり、それらを上手に使いこなして面白い遊びをします。これ等も「釣り文化」の一つです。釣り趣味で繋がる領域は広いのですが、私達が目指すものをプレゼンスしてくれる釣り情報でも「釣り文化」に支えられたプログラムから成り立ちます。

始めに戻りますが「釣り文化の歴史」は古くからありそうですが、やはりライフスタイルに余裕が出始めた戦後から昭和の時代だと想います。その第一歩を先人が築き上げてくれましたが、その多くは書籍とか新聞、雑誌に紹介した釣り人です。
私の時代では毎日新聞社の記者として、あるいは全日本サーフ会長、週刊釣りサンデーを発刊した小西和人さんを第一に上げます。少しばかり釣りの原稿を書いたことで小西さんとの繋がりもありましたが、小西さんをファンにする釣り人は当時、日本一いましたでしょうか。

九州にも有名な釣り人がたくさん居ましたが、釣り文化の貢献度で言えば、やはり月刊雑誌を発行した釣り人でしょうか。ここではあえて紹介しませんが、九州を含む国内の釣新聞、つり雑誌社が数百社以上もあった昭和の時代です。それぞれの分野で釣り文化をリードし、継承していますが、そのような釣り文化を支える役目を果たしていたのが、私が勤めていた印刷会社なのです。


昭和59年7月に週刊つりニュース西部版が読売新聞社がバックアップして創刊されました。その記念創刊号を私が勤める吉田印刷モナ印刷しましたね。菊全判高速オフセット両面印刷機で16000部ほど印刷したのが私ですよ。その頃より週刊つりニュース社とお付き合いがあり、現在の編集長の古賀真治さんは発刊当時からお付き合いがあります。3年ほど続いた週刊つりニュースの印刷でしたが、隔週から毎週となり、更に発行部数を増やしていく過程で、読売新聞社から〇〇新聞社に変わり、受注が無くなりましたが、短いハードな印刷工程は大変でした。

私が釣りを始めた昭和40年代のころ、「九州の釣り」とか「西日本の釣り」という月刊誌がありました。P数が少ない小雑誌でしたが、昭和39年に「月刊釣ファン」が新しく創刊されました。今までにないP数に、写真がたくさん記載されて、分かりやすい、釣れる情報記事に魅せられて、多くの釣り人が購入するようになりました。ちょうど日本の釣り人口1千万人と言われた大ブームでしたから人気の雑誌でした。そして何ゆえか私も、その月刊誌の記事を書く釣り人になり、ペンライターとして入門するきっかけにもなりました。その中で「釣り文化人」ともいえる高貴な方々との接点が、ここで生まれます。


九州磯釣連盟の組織とか九州釣り団体協議会、(公財)日本釣振興会、全九州釣ライター協会、全日本サーフ北九州協会など、九州釣界を牽引するトップスターが皆、月刊釣ファン社を通して繋がってゆきます。そして釣り具企業から経営者との接点もでき、益々、九州釣界というか「九州釣り文化」の発展は月刊釣ファンがある北九州市から始まったと言えるでしょう。

第二期、黄金時代は九州磯釣連盟が創立した昭和50年代で月刊雑誌社も福岡市より月刊釣春秋、月刊釣紀行などが創刊され、日本の釣り人口、2千万人から3千万人といわれる時代に入りました。この頃がピークとして北九州市内には中小合わせて300店ほどの釣具店があり、北九州釣り具商組合も大変な勢いがあった時代です。

しかしながら日本国経済が不透明な時代に入ったオイルショックから大型釣具店が目立ち始め、小さなお店が段々と少なくなりはじめてゆくのも、この頃でした。しかしマキエサのジャンボアミやオキアミが格安で大量に出回り、お魚さんがたくさん釣れる事で、なんとか釣りブームが支えられた昭和が終ります。平成に入るとさらに陰りが出始め、現代の風潮になったのも、この事からの始まりでした。

「釣り文化」
「印刷文化」
は、出版業界の衰退と合わせた平行線上にありますが、釣れなくなったお魚さんとの関係は「日本の漁業」と密接な関係があります。難しい要因なのですが、この事で私達の未来、「釣り文化」を消すことは出来ませんし、「次世代の若者にお魚さんとの触れ合いを出来るだけたくさん残しておきたい!!。その為に私達の支えである「釣り文化の継承」です。

パソコンで釣りの原稿を打ち、写真や地図をデーター化しメールで送る事ができ、釣り新聞やホームページが簡単にできるようになった便利なパソコン。そのデーターがITネットで世界中の人々に伝えられる現在のデジタルは凄い文化だといえます。

私が関わってきた印刷文化の起源は、1750年、ドイツの科学者グーデンベルグが発明した、紙に転写する印刷機械ですがその後に大活躍した事務用のタイプライター、そして近代のワープロからパソコンプリンターとつながります。誰でも簡単に新聞、雑誌の文字が出来るなんて、考えもしなかった半世紀前でしたが、今からの時代、私達はどのような釣り文化を目指し、美しい日本の自然景観を残してゆけるのでしょうか。
                           つづく


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1998九州釣界の活動

北九州市の海辺を考える会

九州磯釣連盟下村会長より

北九州国土交通港湾課長と懇親

九州磯釣連盟20年


オール九州釣り選手権表彰式


九州磯釣連盟下村会長より
各部門優勝者に釣りのファン子がキスの部で優勝

釣りのファン子ちゃん優勝



九州磯釣連盟北九州支部懇親会










(公財)日本釣振興会九州地区支部 総会










私も出席











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1998九州釣界の活動
博多フレンドサーフ20周年
打越さんの挨拶







梅原 昌会長と


九州磯釣連盟の役員さんも


博多フレンドサーフ平戸大会

博多フレンドサーフ平戸大会で洋子ちゃん3位

毎年開催する博多フレンドサーフ


打越さんと武原さん

梅原 昌会長より優勝者へ

サーフ魚3匹の大物長寸で

釣りのファン子ちゃんの釣果



(公財)日本釣振興会の釣り体験学習の指導員が海洋磯釣倶楽部でした













北九州市若松をステージにした私の生い立ち





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