Sports fishing information service japan 1976.3. 創立九州磯釣連盟 北九州支部 海洋磯釣倶楽部/広報musickビルディング・ザグレー(ポール・モーリア)24
2015,9,撮影 北九州市小倉北区足立山望玄荘から観る私の故郷、そして関門海峡・響灘
ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2013.7. 1 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2014.5. 2 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2014.10. 3 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2014.12. 4
ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2015.6. 5 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2016.1. 7 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2016.3.予定 8 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2016.6.予定 9
  ワープロからパソコン、インターネットにつづく私の遊び心  6            記  大和三郎丸 (上瀧勇哲)
       「機関誌 海洋だより」に記載した稿を再編集して紹介しています


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人々の生き方は千差万別。それぞれの生き方、それぞれの歩みをしますが、その生き方を自由勝手に、ハングリー精神で歩める、今の社会は凄く幸福な時代です。

JAPANの戦後70年の歴史は、世界経済をリードする豊かな国となりました。その上、戦争をしない平和国家をアピールし、世界のどの国よりも恵まれた国となりました。その礎としたのが私達の父母でり、今のシニア世代の人々だと想います。戦後生まれの私は、団塊の世代という中で一生懸命働き、幸福になる為、努力と勤勉に励み、誰にも敗けたくない、いつも一番でいたい、闘争心で青少年時代を過ごしました。その裏に何があるか、といえば、幸福でなかった子供時代の苦い想い出、生活苦に喘いだ家族を見極め育ったことでしょうか。

子供が幸福でないと考えるのは、近年と戦後生まれの私達とでは大きく異なりますが、食べる物がなかった時代と、物や食べものが溢れている現代とでは、幸福度が全く違います。

豊かなJAPAN国家に支えられ、貧困の格差は少なくなりましたが、人々の幸福度は更に求められ、幸せになりたい人間の欲望は果てしなく続きます。

その人間欲は限りなく求められ、その求めに応じて人々は一生懸命、毎日、毎日を励み、子供も大人も、シニア世代の私達でも、人間欲を追求しています。そのロマンを追い続けながらリアリティに妄想し
本文を書き、皆さんに読んでもらっていますが、人間欲を出しすぎるとミスばかりおかし、妻や家族に迷惑ばかりかけているのが私です。人間欲を追求した結果、今の幸福があるのですが、決して自分一人でここまでやってこられたのではなく、多くの、たくさんの人々から支えられ、生きてこられた。本当に運のイイ私であった!! と、正直に申し上げられます。

その上で父、母、祖父母のおかげで生きられ、社会に迷惑をかけない私になったことを親戚縁者から誉められます。人を傷つけない、思いやりのハートを持ち、自己の身体をフル活用し、寝る暇を惜しみながらガンバッた30代までの青春時代は、人生の布石となりました。その時に巡り会えた人々を私のホームページ100リンク、2000Pごろで紹介していますが、この方々と出会えなかったら今の私は絶対にありませんでした。多分、大酒のみでギャンブル狂、色恋をたくさんし、金亡者となり、人々からさげすまれ、多分この世に私は存在してないと想いますね。



父の妹にあたる、おばさんが平成2755日、95才で亡くなられました。 

法名「永照院釋慈晄」と位牌にありますが、この法名を説明してくれた北九州市小倉北区、正圓寺、前住職 井上淳信さんは昔、上瀧家の檀家としてお参りに来てくれた方で、私と年が近い方です。法名の「院」をつけられることは、それだけお寺さんとの繋がりを深めた方ですが、そのぐらい優しいおばさんでした。その正圓寺に昔、祖母が私を連れて頻繁にお説教とか法事にお参りしていたことを聞いています。昭和25年生まれの私が、この時代、おばさんや母方の祖父母から初孫として可愛がられ、裕福な家族に見守られ、育った良い想い出を、覚えていませんが、その祖母から勇哲という名を貰ったのは、正圓寺、前住職の祖父にあたる小手川勇哲さんという、ありがたいお坊さん名を貰ったということでした。ちなみに次男の哲郎は哲学者の名。三男の周作は剣豪、千葉周作を貰い、おばさんの子供、勝義、賢造、明信、しげの、それぞれ祖母が名付け親ということでした。



その中で父、松義が、えらく信仰していた滋賀県長浜市、浄土宗の偉いお坊さんが、私名を占ってくれたそうです。父が言うには「勇哲は良い歩みをすれば社会に貢献できる人間になれる、しかし悪い道を歩むと、とんでもない人間になる!! 気をつけなさい」と、小学生の私を見て言われたそうです。そして次男の哲郎は「最後まで親をみる!!」という占いで、そのことが現実になりました。人を見る、世を見る、社会を見る、現実を見る、ことは、全てを知ることから始まります。知ることはアクションが求められ、プログラムされたプロセスを積み重ねながら、広い視点で世の中の見識を知り、自己を置き替え、考えを正しく見極め行動します。時間をかけることも大切なリアリティを生みますが、簡単に申す、結論付けることは出来ません。




人間はそれぞれに於いて個性があり、思考やハートがまちまちで、良いアクションもあれば悪いことだってします。ただ、その時々の環境により、心の病が付きまといますから厄介なのです。社会を正しく見極めながら自己を成長させ幸福度を追求します。決して他人に迷惑をかけない人間欲を目指してほしいと想いますね。その中で、若いとき迷惑かけたとか、社会に貢献できなかった、などで、今から始められる私達は、余裕のハートで社会に貢献してほしいと想います。私はそのプロセスを今、妻と歩んでいます。



さて、この稿を書いているのが平成277月25日です。

今年は雨が多く、昨日からたくさんの雨水が田畑を潤し、稲は喜び、カエルは歌い、白サギがお腹いっぱい羽を広げている景観が、我が家から見える京都平野です。そして平尾台、香春岳、彦山に繋がる山並の地平線に沈む夕日も素晴らしい絵画になります。その東側には周防灘があり、100m高さの境界に元永山、覗山が続き、朝日がその周防灘の山並から昇ってくると、中庭の芝生広場のグリーンが冴え、優しい明りが縁側から差し込んでくると、慈母観音像様と、お母さんが描いてくれた一畳ほどの掛け軸が輝きを増し、見事なコントラスが浮かんできます。その14畳ほどの明るい室は洋子ちゃんのお母さんが使う室としていますが、今は元気で長崎県大村市に住み、いずれ介護が求められる時に帰って来ますね。それで時々空気の入れ替えをしています。



そのような行橋市の田舎町に住み、14年になりました。

その前は都市モノレールそばの小倉南区志井の家。こちらは昭和60年、ありったけのお金をはたいて中古家を購入し、ローンを返済していましたが、あまりの傷みようで新築にしました。しかし4年住み、会社が行橋市に変わったことで今の家に変わりましたから志井には18年住んでいました。それ以前は北九州市若松の吉田印刷kkアパートに結婚して10年住み、この地で人生の基礎を生む洋子ちゃんの、お爺ちゃんお母さん、親戚の方々、そして会社の先輩、師匠他、釣趣に関わるたくさんの人々との交流をもつベースとなりました。



生まれ育った北九州市小倉、三郎丸は、私のペンネームとした大和三郎丸を忘れない為に使っていますが「三郎丸の地」は、父が始めて畳店を構えた土地であり住いとした地です。そして私が生まれ、青春時代を過ごした豊かな想い出の故郷でもありました。



こうして振り返ると、4つの地域でそれぞれに人生を学び、豊かな人々との巡り会いが限りなくありました。そして、このような文章が書ける大切なホームプレートがあり、恵まれた家庭環境に住み、今もこの社会をプラスに変えながら歩んでいる私に、自信と誇りを持つことを覚えます。
皆さん、人生を楽しみましょう。そして出来るところで社会活動しましょう。その一歩が「こんにちは」「こんばんは」「おはようございます」「ありがとう」の声かけです。      つづく


2015.9.
          ペンネーム 大和(やまと)三郎丸(さぶろうまる) (上瀧(じょうたき)(ゆう)(てつ)





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北九州市若松をステージにした私の生い立ち




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