Sports fishing information service japan 1976.3. 創立 九州磯釣連盟 北九州支部 海洋磯釣倶楽部/広報 musick レッド・ターン (ポール・モーリア) 18

本州と九州を引き裂いて流れる関門海峡瀬戸、関門大橋で繋がる下関市と北九州市は歴史の故郷。その関門海峡瀬戸で遊ぶ、私達釣り人の想いと自然愛を巡るストリーを紹介。
2015.11.写真は北九州市小倉北区小文字山公園から関門海峡と関門大橋、対岸は下関市。

ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2013.7. 1 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2014.5. 2 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2014.10. 3 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2014.12. 4
ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2015.6. 5 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2015.9. 6 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2016.3.予定 8 ワープロからパソコン、I.Tにつづく私の遊び心2016.5.予定 bX
  ワープロからパソコン、インターネットにつづく私の遊び心  7             記  大和三郎丸 (上瀧勇哲)
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          「機関誌 海洋だより」に記載した稿を再編集して紹介しています


ワープロからパソコン、インターネットにつづく私の遊び心  7

                 九州磯釣連盟 海洋磯釣倶楽部 会長 上瀧勇哲

お魚釣りを始めて半世紀になりますが、学生時代は身近な河川で、竹竿に紡績糸が当たり前、その糸に鈎をくくり釣りをしていました。今と随分かけ離れた釣り具でしたが、これで十分魚は釣れていた時代がありました。

それで本格的に釣りを始めたのが社会人となった18才からでしょうか。この時代は外国製のリールに6角グラスロッドが普通で、小さなリールが良く壊れました。その頃から「オリムピック」とか「ダイワ」という国産釣り具メーカーが出てきて、日本人好みの、繊細で使いやすいスピニングリール、これにフカセ竿、投げ竿が毎年改良され、釣りブームを押し上げた昭和40年代がありました。

20代の私は兄弟、従兄弟、釣り仲間に囲まれ、北九州市小倉三萩野交差点にあった常広釣具店、ダイワ釣具店に良く通っていました。まだポイントなど大型店舗がない時代で、当時はこうした小さな店が北九州地区エリアで350店舗もあったのですよ。小倉だけでも45店。若松は12店あり、その店を常連にした釣りクラブがドンドンでき、釣りブームに火をつける繁栄がありました。その黄金時代に拍車をかけたのが釣り具メーカーや水産会社でした。ガラス繊維で作られる安かなグラス竿とリール、そして釣り糸の強さに加えて、鈎、ウキなどの小物品が品揃えされドンドン進化してゆきます。そしてジャンボアミ、オキアミを大量に市場供給した水産会社が、さらに火をつけました。



この時代、趣味の遊びスタイルが公営ギャンブルしかなかったものですから、清純派サラリーマンが競って釣りをするようになり、自然と直結した健康と魚のご褒美が得られる趣味としてPRされ、新鮮な魚が食卓に並べられることで、主婦も大歓迎の釣りが、日本の釣り人口2千万人から3千万人という社会現象になりました。その絶頂期を今のシニア世代が猛アピールしたことになります。

昭和42年、社会人となった私は北九州市若松区の吉田印刷モノ勤めはじめますが、会社上司が頻繁に通う伊木釣具店、矢野釣具店、はまや釣具店は九州を代表する有名な釣り人が参集し、ジャパンダイナミック磯釣連合を結成したり、九州磯釣連盟を設立する若い指導者があふれていました。その釣り猛者を、釣りバカとして見てきた私。まだ釣りの魅力を感じない、ただの遊び感覚しか望んでない若者でもありました。

この時代、鰍ェまかつ鈎から高級ハイカーボンロッドが出始め、クリスタルロッドから純世紀ロッド、93スピニングリールなど、新しい高級機種をドンドン出していた潟Iリムピックに、こだわりながら、潟_イワからでるミリオンマックス・スピニングリールは、当時最強とされ、多くの釣り仲間達が毎年機種を替え、私が最も良く使ったリールです。そして鰍ェま磯シルバーロッド、がま投ロッド、鰍ウくら・ブルー日本号。鰍mFT石鯛ロッド、ペン、リールから、渇F崎日新、潟_イコーなど、ありとあらゆる釣りスタイルに対応した釣り竿、リールをドンドン買い求め、楽しんでいた私でしたね。



その遊びの世界で、少しずつ釣界のスーパースターとコミュニケーションできる関係を持つのですが、しょせん私は若僧でしかありませんから、いつも控えめで、出来るだけ表に出ない、隅っこの方で話しを聞いたり、言われるままアクションしていた私でした。しかし、この頃より「九州釣界」という、深いパイプに繋がれる役目、環境に入ることになります。その要因を作ったのがペンライターという肩書です。吉田印刷磯釣倶楽部から海洋磯釣倶楽部のお世話係をしながら、毎月、投稿する月刊 釣ファンとか、読売新聞社や毎日新聞社に私の文稿、写真が記載されることで、釣り具メーカーさんから声を掛けられ、モニター役になりはじめたのもこの頃です。



潟Iリムピック、日本化学発光株式会社(潟泣~カ)、潟Sーセンがスタートラインで、この後に潟Iーナーばり、潟{ナンザ、()つり万、樺゙研、潟}ルキューさんとなります。その中で、釣り人を増すとか、社会的に釣りを応援する為に、釣り仲間とか組織、団体、行政などとタイアップした奉仕活動を多くすることになります。その中で、もっともハードなのが「釣り場環境美化」との取り組みです。このテーマは昭和51年に結成した海洋磯釣倶楽部の先輩達にあります。



私の師匠、先輩は非常に釣りマナーとか釣り場美化にうるさい方で、師匠と釣行するときは、いつもゴミ袋を持って釣り場美化していました。特に昭和時代の荒磯は何処もゴミだらけ、悪臭が漂う釣り場ばかりで、大潮で水没する小磯だけは奇麗という状況が、大分県の磯、山陰の磯、長崎県磯でごく普通にありましたね。又、そのゴミを渡船場に持ち帰ると、船長さんがそのまま海に捨てることさえありました。そのぐらい海はゴミ捨て場という環境が現実にありました。


そのことで九州釣界のスーパースターやペンライター組織、そして最も協力してくれた(公財)日本釣振興会さんのサポートで私達、海洋磯釣倶楽部の会員皆して例会、大会度に釣り場清掃美化していましたね。そのようなアクションプログラムをペンライターとして月刊 釣ファンや月刊 釣紀行、月刊 釣春秋。そして全九州釣ライター協会を通して、読売新聞社から西日本新聞社、スポーツ紙などにアピールしていました。そのような活動をすることで九州磯釣連盟、海洋磯釣倶楽部、そして私達のレベルアップに繋がることで、ますます九州釣界トップレベルの方々から優しい声をいただき、更にアクションが求められることになるのでした。

今こうした稿を書いていますが、私が歩んだ釣り人生の多くは釣り場美化に励んだことで、栄誉という自我自賛の花道を歩んでいるのです。決して私一人のパワーではないのですが、支えてくれる、一緒になって遊んでくれる釣り仲間がいて、先輩、師匠のおかげで今の私があることなのです。詳しくはホームページ「未来へ継ぐ釣り文化、釣り場環境美化推進のとき」14リンク、56Pをご覧下さい。




今、こうした稿をパソコンで打ち、編集し、印刷して「機関誌 サーフメイズ JAPAN」に記載し、行橋市のダイソー店でB4両面コピーし、5枚セットを半折りにした20Pで一部としたものを、行橋市のトップ行橋店、及び、ポイント苅田店、ダイワ釣具店、フィッシング・ガイド店など10ヶ所ほどのお店に手配りしたり、釣り仲間、組織、団体、行政、主な釣り具メーカーなどに郵送などしています。その際、手配りできるものは(公財)日本釣振興会のチラシとか釣り場美化用のゴミ袋3枚をセットにしています。手間暇かけてのボランティア作業ですが、年6度発行する印刷費とか郵送切手は大変な個人負担になりますが、出来るところまで続け、なんとか私の釣り人生を全うしたい。その想いで続けています。

さて、若いときの私の手書き文は読みにくいし文章になってない原稿で、新聞社、雑誌社には大変迷惑かけしました。その文・稿が活字文字になると、文章が読みやすく、分かりやすいスタイルに置き替えられ、思わず自分が書いた気分になり、しかも写真やイラストが加わり、ページ編集されてしまうと、自慢の投稿者に変身してしまうのです。そのことで次も良い記事を書こう、いい写真撮ろうなど、釣れる釣好自慢原稿にする為、釣行意欲も更に高まるのですね。

自分の稿が持て囃されると、よりプレッシャーを感じ、次も、次もということになります。そのことで家族や会社に迷惑をかけたり、釣り仲間にハンディを背負わせた釣行も結構ありました。それでも仲間達や先輩、師匠は優しく対応してくれ、趣味とした魚釣りのお付き合いは、楽しくて、面白くて、しょうがない良い時代にハマっていました。

その上で生甲斐を持ち、私達は「釣り文化をリードしているのだ!! 」と、想えるぐらい釣趣に没頭し、ワープロ、パソコン文章を打ち、仲間づくりのコミュニケーションの為、新聞作りとインターネット・ホームページを製作配信しています。そして、あの頃の私達には夢、ロマンがありました、と、お伝えしています。                              つづく
























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2016.
北九州市若松をステージにした私の生い立ち



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